北条 氏康。 「戦国でもっとも不毛な戦い」のきっかけを作った 武田×今川×北条の「三国軍事同盟」【麒麟がくる 満喫リポート】

1515年:北条氏綱の嫡男として相模(現在の神奈川県)で生まれる。

後の武田氏を交えたの締結までは緊張が続いたが、その後は同盟関係を堅持し、駿河侵出はなかった。

wiki c 氏康は元亀元年(1570年)8月頃から体調を崩す。

また、実際の統治の仕方などを見ても中央集権が確立されておらず旧態依然としたもの。

北条家の合戦の裏には、必ず風魔の活躍がありました。

家紋の意味は諸説あるため、別の機会にご紹介します。

実際に、豊臣秀吉の天下統一の過程で、徳川氏はもちろんのこと、毛利氏も長宗我部氏も上杉氏も島津氏も、そして伊達氏も大名として生き残っています。

1530年小沢原の戦いで初陣、勝利し、その後も戦功をあげました。

『勝った!!勝った!』と叫びながら突撃してくる綱成の部隊は何しろ強く、『地黄八幡』の旗印を目にした敵は恐れおののいたと伝わっています。

約8万の連合軍であったとされ、連合軍に包囲された河越城は約半年に渡る籠城戦を強いられることとなります。

父の綱成同様、氏康に信頼され、その覇道に大きく貢献しました。

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